antropos’s blog

日記? それと芸術作品の保存修復に関して

はてなを思うように使いこなせない

日記をブログとして書くことはやぶさかではないのだけれどはてなブログは重いのかやたらとアイコンの表示に時間がかかるし文字を打つのと表示されるのとではつねに若干のタイムラグがあるしカーソルがしばしばどこかへ消えるし記事にしたときに書いていた時よりも行間や文字間がかなり空く仕様になるしボタンを押してからの待ち時間が2018年のWi-Fiのそれではない

 

うまくいかない

本を読んでいる時に

きたない話です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『分析美学入門』第3章美的経験を読んでいる時に便意を催したのでお手洗いに行くため席を立った。

私は胃腸が弱いうえに食生活と睡眠時間が不規則でかつ煙草を吸う。だからなのか知らないが、5日間出ない時もあれば3日連続で手洗いに行くたびに若干お尻も拭く羽目になることもある。要するに快便体質ではないのだ。

ここでもうお分かりかと思うが先程してきたうんこがあり得ないくらい健康的で非常に感動してしまった。

ほどよく直腸の形を保ちながら柔軟性を持ち、最初に出た部分が便器の奥に入って見えないほど長く、終わりの部分はゆるやかに弧を描いている。もちろん潔く、途切れのない1本として。まさしくバナナうんこである。

(良いうんこの指標にバナナうんこという表現があると思うのだがこれはパナマ運河とかけているんだろうか)

一見して(美しい)と思い、(これこそが美的経験だ)と思ってしまった。

 

『分析美学入門』著者であるステッカーが採用する美的経験の最小説は以下のように定義される:

「対象の形式、質、意味ある特徴などに、それらを識別するような態度で、そしてそれら自体のために、もしくはまさにその経験に内在的なペイオフのために、注意を向けることによって、もたらされる経験」

 

私はうんこの形(1本である、ほどよく太い)や質(柔軟である、明るい茶色である)、意味ある特徴(上述の性質は健康的という意味をもつ特徴ともいえる)を、それらを識別するような態度で、見た。

そして、それら自体のために(この弧の描き方は美しい)、もしくはまさにその経験に内在的なペイオフのために(出すのが気持ちよかった、形が美しいことは見ていて快であった)注意を向けた。

 

まさしく美的経験じゃないか!

 

咄嗟に、「美しいうんこ展」なんてあったらうんこ芸術というジャンルが確立してしまうかもしれないと思った。しかし当然、拒絶反応もあるだろう。この反応はさっきの私には全くなかったものである。なぜか?

それは、私の経験が「出した」と「見る」の複合的な経験であったからである。私はうんこをひねっている時に(あ、これいい感じのやつだ)と予感したし、そもそもうんこのキレがよいとお腹が凹む上に体も軽くなり、さらに下痢の時のようにお尻も汚れないのでとても快なのだ。

さらに私はきれいなかたちのうんこを見て自身の健康を確認した。今までにない程、現在の自身が健康であることがあれによって視覚的に証明されたのである。一般に、うんこが健康の基準となるということは受け入れられて良いと思う。そして、自身の健康を知ることは快である。

 

そんなわけで、単に形が美しいことと、その形の美しさが私にとって便後感と健康確認にとって有益であったことがあいまって、先程の「うんこ出す‐見る」経験が美的経験になったのであろう。

付言するならば、今が晴れた春の昼時で、自然光が美しく差し込んでしたという照明効果もあったかもしれない。

 

うんこ展はまじでどうでもいいが、そのあと一瞬だけ太もも展へと思考がスライドした。

通常美的なものとは考えられていないものに対して美的経験を得ると人はそれを共有したくなり、ともすると展覧会を開く。

女性の太ももを美的に経験することは可能であろう。しかし、美的に経験するためにはある程度(さまざまな質を識別しようとする態度で対象に注意を向ける程度には)積極的な姿勢が必要である。そうした姿勢は、べつに特別身構えるようなものではないが、対象を美的に経験できるポテンシャルを備えているべきだ、ということを示している。

 

まったくそこには美的経験はないのだ、と思いながら、従来美的とは思われなかったものを美的に経験することは難しい。

しかし上記のような姿勢を鑑賞者に求めるには、太ももは(うんこと同様に)あまりにも別の意味をすでに与えられすぎている。すなわち、性的であるという意味である。この意味は、近年盛り上がりを見せる倫理問題と関連し、太ももを鑑賞する行為に対してセンシティブに介入してくる。

 

ゆえに、ここにも美的経験がありますよ、ということをうまいこと提示しないことには、美的でないとみなされてきたものを美的経験の対象に含めることは困難なのだ。それはキュレーションのなせるわざである。

 

だらだらと思いついたので書きましたが、まさか太ももをうんこと同様にして語る日が来るとはゆめゆめ思いもしませんでした。まあこのあたりでおわり。

'Contemporary Theory of Conservation' Chap.8

Chapter 8    Sustainable conservation

修復の基本的原則である可逆性と最小限の介入についての考察。

・「修復のゴールはどのように達成すべきか?」

・対象から最も影響を受ける人々のベネフィットを考慮する

・後代の人々も、将来的に影響を受ける人々として考慮すべきである。

・このことから、持続可能的であることも原則に含めるべきである

 

・可逆性と最小限の介入は対立する。もし処置が可逆であるなら、最小限である必要はない。同様に、真に最小限の介入が可能ならば、それは「ゼロの介入」を全く含まないため、その時可逆性についての心配は存在しない。とはいえ、いずれも対象の保存に寄与する目的を同一にする異なるアプローチと解せる。

 

 

・可逆性は狭義でとると処置の許容範囲が狭すぎる。必要条件ではないが、可能な場合は理想的な指針となるようなものである。

・最小限の介入は、修復目的に依存するため、ともすると範囲が広すぎる。修復が本質的にネガティブな影響であることを思い起こさせ、必要以上の処置を行わないよう喚起させる原則である。

 

restoration(積極的な介入):無時間的な美的特質の意味を伝達できるようにする

preservation(消極的な介入):破壊などの事実を伝える歴史的証拠としての意味を伝達できるようにする

 

◎コスト-ベネフィット的な視点

・有形なコスト:経済的コスト

・無形なコスト:コミュニケーション的コスト←これが重要。

 

修復の究極目的は、対象を使用する者の満足である。この人々は、われわれではなく、将来の人々であることもある。

専門家の視線のみでは、対象がもつ意味を十全にくみ取ることができない。修復は、対象に関わる人々にしぶしぶ受け入れてもらうものではなく、喜んで歓迎されるようなものであり、かれらに利するものでなければならない。

 

 

20180217

私が 吐いたものは 怒号を立てて 配管の奥へと吸い込まれていく 私は トイレの水が溢れてしまうような不安に駆られながら いつもそれを見て安心する でも本当は 不安になるようなことは初めからしたくない

昨日と今日は久々の休日だった いつも半分休日のようなものだ が 特別になんの煩いもない日だったということだ 昨日は恋人が来た 適当に話をしながら 駅前 へ 向かって 私の方は バイトへ行って 彼の方は 夕飯の買い出し行って 11時頃家で一緒 に夕飯を食ベタ 一緒に寝た あの人は 1度 目を覚ました時 とても怖い夢を見たと言っていた けれど 次に起きた時は忘れていて私はとても安心した 昼前に起きて 性行為をして 寝て 起きたら3時だった 私が身支度を済ませる間彼は キリンジを 弾き語っていて 私たちが求めるものは全て あの時間に詰まっていた。
 その後 あの人を バス停まで送って行って 飲み会に出た 手品を見た カラオケ行った みんなで歩いて帰った 私はあの人がいないのが寂しくて ということ が理由なのか どうか分からないけど 少し食べて吐いた 胃がひっくり返るような思いをしながら いつものように トイレを流れていく大量の食べ物 見つめていた 体中に蕁麻疹が出ている 私はあの人と一緒に生きていきたいのに なかなかそうはいかない 人間の孤独は簡単には 癒 えない

1221

回文な日付だということにタイトルを打っていて初めて気が付いて、日記を書くことの理由にでもしようと思ったけれど、やめた タイピングがものすごく早くなっている気がするけれど手がかじかんでいるので±ゼロであると思う 15000字書いてもまあいいんじゃないとしか言われなくて、私はもっとこうボロクソ言われたい でもやっぱりやさしくはしてほしい でもこのまま間違ってるんじゃないかと思いながらやっていくのはつらい 診断されたい 診断されるの好きだ 性格診断とか健康診断とか 診断されれば立ち位置がわかるようになるから 冬休み一日前だけど論文を見せてもいいのかな先生に? 凄く毎日死にたいけれど死なないだろうということがよくわかっている 最近はけーたいで漫画を読んでしまうからだめ。だめにならないために蔦屋で借りるようにしたりとかしたい。全部どうでもいいからたくさんたくさん映画が見たい。ほんとうにたくさん・・・たくさん映画が見たい。この前キングスマンの予告編でいい音楽流れて泣いちゃった 映画が恋しい 昨夜は夜じゅう81/2流して寝たりとかした E una festa la vita. Viviamo insieme.というのがちゃんと聞き取れてグイドを凄く近く感じた

現代美術の保存修復における批評について ―意図と素材の関係から―  

 

 

 

 

 

 0.概要

現代美術の修復には、素材の虚弱性と多様性からくる作品の急速な劣化や、複雑化したオリジナル概念への理解が喫緊の課題となっている。修復処置は、作品の本質を見極め、作品のうちのどの素材が代替可能でありうるのかといったことを批評的に判断しなければならない。現状では、存命の作者に作成意図や今後の処置判断を仰ぐことが適切かつ必要であるとされる。しかし、作家が既に逝去していたり、そもそも修復に関心を持たない作家がいたりすることも事実である。であるならば、作家にアクセスできようとそうでなかろうと、修復家が要請される批評とはどのようであるべきかを問わねばならないだろう。

ブランディは古典作品において、内的イメージと素材をともに保存する必要性を論じている。このことは現代美術にも当てはまるが、作者が内的イメージと捉えるものは従来よりも質的に変化しており、それに伴い素材とイメージのつながり方も変化している。作品の所持者は、これらの変化に対応した保存概念を再構築する必要がある。保存修復の実践においては、素材研究や作者へのインタビューに加え、映画や演劇のような芸術ジャンルのアーカイブの手法を参考にしていくことも一つの方法であると思われる。

 

 

1.はじめに

 2017年8月29日から9月1日にかけて、博物館見学を実施した。事前調査で、筆者は国立国際美術館を担当した。調査演習第3日目に当館を訪問し、レジストラーである小川絢子氏より説明を受けたのち、収蔵庫を見学させていただいた。そこで、現代美術における保存修復の問題は従来の芸術作品における問題から目まぐるしく変化し、広範かつ時間的に逼迫したものとなっていることが理解された。これを受けて、本レポートでは、実際の現場にて浮上している問題意識から、「作者の意図を探る」ということに焦点をあて、これがいかなる作業であるかを検討する。

 

国立国際美術館について

国立国際美術館は、独立行政法人国立美術館が擁する5つの国立博物館のうちのひとつで、特に現代美術を対象とした収集・保管および調査・研究を行っている。1997年に万博美術館を活用して開館し、2004年に現在の大阪・中之島西部地区へと新築・移転した。

 修復活動においては、今年度(2017年)は、修復研究所21にて所蔵作品である田中信太郎《マイナー・アートA.B.C.》(1968)3点が修復され、近日中に展示予定である。また、来年1月より開催される開館40周年記念展での展示に向けて、ロバート・ラウシェンバーグの《至点》(1968年)を3月に動作確認し、修復している。

 

 

2.現代美術における保存修復の課題と国立国際美術館の事例

現代美術は、素材の虚弱性と多様性が保存修復上の逼迫した問題を生み出している(ダンジェロ2017, 22)。それだけではなく、コンセプト重視の傾向が進んだ結果、素材という存在が作品にとって重要な意味を持たないケースもあることが原因であるとの指摘もある(パテッラ2017, 7)。これらの問題は国立国際美術館所蔵の《optical flat[1]/fiber optic type(以下optical flat)》(2000年)[Figure1]の保存修復においても顕在化している。

高谷史郎《optical flat》は氏の個展のために制作され、のちに国立国際美術館に収蔵された作品である。従来のメディア・アートの形式を確信する試みのもと実験的に制作された、「映像が入った彫刻作品[2]」と作者は語っている。また以下はICCの「ライト・[イン]サイト」展出展時に付された作品のステートメントである:

 

直線に並んだ金属のシャフトに突き刺さるかのように上を向けて設置された二台の液晶ディスプレイ上に,テーパーのついたグラスファイバー製の拡大鏡が置かれている.ディスプレイには映像が高速度で出力され,その上のテーパーグラスファイバー[3](視神経の束のような構造を持ち,形態も眼球を想起させる)を介し拡大または圧縮され,フラットかつシャープに表示される.記憶のメタファーとしての膨大な画像が,空間の直線性であらわされた時間軸における「現在」としてディスプレイ上で瞬間瞬間に高解像度で可視化され,観客は,あたかも記憶から機械の「眼」により出力される光学・視覚的な映像を受容する(映像を受容する「眼」の内側から見る,という逆転した図式)経験をする.このインスタレーションでは,映像を受容する「眼」を内側から見る.という逆転した図式が示唆されている.(ICC)

 

本作は2015年に小川氏担当のもとで修復された[4]。まず、本作は発表時と収蔵時とで形態が変化しており、いずれをオリジナルと捉えるかが焦点となった。作家との相談の末、発表当初に意図したコンセプトに忠実であることを修復のゴールに据えることとなった。その結果、旧機器(Mac G4)を覆う黒い箱が取り去られた。また、展示時には臨時に壁を設け、発表当初に作品が部屋を跨いで展示されていた状況と近似するよう、作品が壁を貫通しているように見せ、新機器(Mac mini)は壁内部に収納された。さらに、作者の手を離れてからもコンセプトが再現可能であるよう、処置や機器操作のフォーマットが作成された。

小川は、現代美術には機器の問題とオリジナル概念をどう位置づけるかという問題があるとし、処置の是非と程度を確定するためにはそれらについて作者に事前にインタビューしておく必要性があると強調する。機器は経年と共に作動しなくなる可能性があり、その前にエミュレーションあるいは生産終了前に同一のスペアを購入しておかねばならない。それでも実際に《optical flat》において白い箱を取り去り、新機器を導入するという一見過介入ともとれる処置をとれたのは、機器自体が作品の本質ではないことが作者によって示されたためである。

海外では、作家・キュレーター・コンサバターが協働し、作品のコンセプトと劣化想定時の処置介入の是非をインタビュー・アーカイブすることが一般的になっている。こうした言術も残すべき作品の一部なのである。

しかし、すぐに想像できるように、インタビュー記録ができたとしてもすべての事態を予期して調査しておくことは不可能である。さらに、同館蔵で修復中の《至点》のように作家が逝去している場合はインタビューが不可能であるし、小川もこのような作品に対する処置決定を迫られる場合は絶望的であると述べている。そのうえ、そもそも作家が修復に対して関心を払わないケースもある。名古屋市美術館蔵のアンゼルム・キーファーシベリアの少女》(1988)[Figure2]は、作家が存命であるにもかかわらず、作家の意向に拠らずに館の責任において2015年に修復が行われた事例である。公開修復時の解説者は冗談交じりにこのようなことを述べていた:「キーファーに修復処置について尋ねたところで取り合ってもらえず、むしろ新作を描くから買ってくれと言ってくるだろう」。

作者にアクセスできようとそうでなかろうと、上記でみたように、修復にはオリジナルを見極めるための情報収集及び批判的分析が欠かせない。古典作品においてブランディは、修復とはテクストとして作品を批判的に読み解くことであると述べたが、同様に現代美術修復においても、ハインツ・アルトヘーファーが「修復とは、芸術学と同じように、芸術作品の批判的解釈である(1992, 132. パテッラ2017, 11訳)」「的確な作品解釈があらゆる修復の前提(1991, 148. ibid.)」と述べている。それでは、批評的プロセスはどのようにあるべきなのだろうか。

 

 

3.イメージと意図、そして素材とのかかわり

 チェーザレ・ブランディによれば、修復の目的は、対象を芸術作品と見做すような美的経験を回復することである。そのために、素材とイメージが区別され、介入可能である部分が素材に限定される(修復の第1原則)。ここでブランディが念頭に置いているのは、素材は心的イメージの伝達道具でしかなく、芸術の本質はイメージの側にあるというクローチェ的概念である(ダンジェロ2017,30. また池上2007, 117)。つまり、作品の本質である心的イメージが経験されることで作品は芸術と見做されるのだ。しかし、心的イメージとはなんなのか。作家の意図した内容を指すのか、それとも、鑑賞者が作品を受けて個人の内に構築するものなのか。

 作品と作者の意図の関係は美学の分野で盛んに議論されてきた。ここでは作品は作者の意図をある程度反映する意図主義の立場から、上記の心的イメージを分析する。仮説的意図主義という立場をとるジェラルド・レヴィンソン(1996)は、意図を意味論的意図と範疇的意図のふたつに区分し、次のように説明している。

 

我々は芸術の制作と受容にとって重要なふたつの意図を区別する必要がある。一方は、範疇的意図であり、他方は意味論的意図である。あるテクストTによって、あるいは、それにおいて何かを意味しようとする著者の意図(意味論的意図)が一方のもので、テクストTがある特殊なあるいは一般的な仕方で分類され、あるいは理解されるようにする著者の意図(範疇的意図)はまったく別のものである。範疇的意図は、作者が、彼の作品を彼が想定する鑑賞者に対して枠付け、位置付けることを含んでいる。範疇的意図は、作者が何を作ったのか、それは何のためにあるのか、という作者の考えを、より基本的なレベルで含んでいる。それらが支配しているのは、作品が何を意味すべきか、ではなく、作品が根本的にどのように受け取られ、接近されるべきか、ということである。ここで考察されている範疇的意図にとって最も一般的なのは、明らかに他の何ものとも違う接近の仕方を要求するものである文学として(あるいは芸術として)みなされるべきだという意図である(Levinson 1996, 206. 河合(2012, 8)訳)。

 

 意味論的意図とは、作品が何かを意味しようとする作者の意図であり、作品を「芸術作品」として制作しようとする意図である。河合は、現代美術の解釈において作者の意図が重要である場合、「作品を通じて伝達されるような意味論的意図ではなく、作品がどのように経験されるべきかという範疇的意図」が重要であるという。

さらに河合は、作品には「①作者が(意味論的な)意図を慣習的なコードに従って表現することを(範疇的に)意図した作品と、②作者が(意味論的な)意図を表現しない、あるいは非慣習的な独自のコードによって表現することを(範疇的に)意図した作品」という区別を提示している。

①と②を、古典作品と現代美術から例を挙げて具体的に見てみよう。ミケランジェロの《ピエタ》は、当時の美の規範であるカノンに則り、キリスト教美術の図像学に基づいて、すなわち慣習的コードに基づいて聖母マリアとキリスト(意味論的内容)を彫刻した作品である。また、大理石から人物を掘り出すという手法は伝統的な芸術制作方法であり、芸術作品となることが範疇的に意図されていると言えよう。ゆえに《ピエタ》は①に属する。一方で、《optical flat》を例にとるならば、テーパーグラスファイバーが眼を暗示することは作品独自の意味付与であり、すなわち独自のコードに基づく。さらに、素材自体こそ芸術独自のものではないものの、「従来のメディア・アートを超えたものを作る」という制作意図が、作品をアート・シーンの俎上に載せようとする、範疇的意図として解される。

 ここで素材と意図の関係を考えると、現代美術は従来よりも複雑化・多様化していることがわかる。従来、作品が長持ちするように素材に配慮することは芸術を制作することの一部であった。芸術作品とは、長く保存されるものと同一視されたのである。特に、対象の永遠性が意味論的に意図された場合は、わけても素材の堅牢性が重視された。一方で現代美術においては、素材を芸術たらしめることと長持ちするものを選択するという発想とが必ずしも結びつくとは限らない。《optical flat》において、素材の堅牢性や虚弱性はそれが芸術であることを望む意図とは関係がないように思われる。実際、Mac G4が入った白い箱は意味論的意図を何ら持たないし、それがなくとも作品の芸術性は変化しないと作者自身によって見做されたのであった。他の例をもうひとつ挙げよう。ウィリアム・ケンブリッジ《勝利と哀悼》(2016)[Figure3]は、テヴェレ川沿いの堤防に、ローマの壮大なる歴史が、大気汚染(スモッグ)によって堆積した煤から浮かび上がるような手法で描かれた作品である。ここでは素材の脆さと、栄枯盛衰する歴史あるいは人間の儚さといった意味論的意図が直にリンクしている。加えて、鑑賞者が立ち止まって作品を眺めることで、個々人の自由な歴史解釈が喚起されることが緩やかに意図されている。

 ここまでみてきたように、範疇的意図は、我々が芸術として認める範疇を押し広げようとしてくる。はじめは伝統的な制作方法がその拠り所であったが、「素材にとらわれない」ことや、「鑑賞者に解釈が開かれている」ことなどが芸術概念に含まれてきたのだ。

 

 

4.修復儀礼説と意図の保存から考える所持者の意識の転換

範疇的意図が作品を芸術作品たらしめる意図であるならば、作品が芸術として外的に認められた時、すなわち作品が発表あるいは買い上げられた時にこそ、その意図は完遂されるといえるかもしれない。この考えは岡崎乾二郎の「作品の完成時は契約が発生した時である(岡田2007, 15)」という立場(修復儀礼説)に負っている。岡崎は、作家が第3者と作品についての規約を公私問わず交わす瞬間を、ひろく「契約」と見做す。ここにおいて作品は規定され、作者ですら作品の改変を許され難くなる。たとえ作品のコンセプトが観念化した瞬間こそが作家にとって重要であり、素材の劣化に関心がなかったり逆に再制作を望んだりしたとしても、契約後は所持者が作品の素材の唯一性に対して責任を負う。ここで所持者は2章でみたような喫緊の課題に直面するのである。従来の芸術概念である「長持ちさせる」という慣習的な芸術概念-コードが、もはやその発想のうちにない作品にもあてはめてしまっている点に所持者の困難が発生しているのだ。

《optical flat》の修復は、作家と所蔵館の2者間の合意のもとで公的に契約が更新されたゆえに正当化されたといえる。しかし上記のような2者間の合意が不可能な作品において、あるいはさらに、《勝利と哀悼》のように素材がなくなることが芸術性と不可分である作品においては、「唯一無二のものを長く保存しなれければならない」という作品概念から、所持者側もまた作家と同じように抜け出る必要がある。すなわち、作品がなくなることを許容しなければならないのだ。そうすることがむしろ、作品の範疇的意図をよりよく守る方法なのである。ただしこうした態度が広く鑑賞者や美術関係者に対しても正当性を謳えるためには、まだ多くの課題があるだろう。

 

 

5.おわりに

100年単位で物質的な保存が不可能であると思われる作品が後世においても芸術的価値を保証されうるためには、作品を芸術たらしめている意図、すなわち範疇的意図がよく保存されねばならない。意図の保存は、作品の本質を守る点においてのみならず、どう延命させてもいつかは朽ちてしまう作品が実際に亡くなってしまった際に、そこに芸術作品があったという事実を後世にも伝え続ける点においても必要である。なぜならそのような作品は得てして独自のコードに基づいて制作されており、コードが不明になれば芸術以外の対象との区別がなくなるからである。修復における批評とは、作品をよく理解するとともに、作品に応じた保存概念の在り方をつねに自らに問い直す作業なのである。

最後になるが、素材としては2次的なアーカイブにならざるを得ないとしても、作品の本質を保存する上では重要な方法として、映画や演劇の分野における保存の実践が参考になるのではないかと考えている。「もの」より「こと」を重視する現代美術作品の一部には、絵画や彫刻といった芸術よりもこれらの芸術の方がジャンルとして近いものがあるからである[5]

 

 

参考文献

International Communication Center(ICC) (2017年9月26日閲覧)

http://www.ntticc.or.jp/ja/feature/2008/Light_InSight/Works/opticalflat_j.html

Heinz Althofer, (1991). Il restauro delle opere d ’arte moderne e contemporanee, trad. it. Nardini, Firenze.

AAVV. (1992). Consercare l’arte contemporanea, a cura di Lidia Righi, Nardini, Firenze.

Levinson, Jerold. (1996). “Intention and Interpretation in Literature.” In his The Pleasures of Aesthetics: Philosophical Essays, Ithaca, NY: Cornell University Press, 175-213. Reprinted in Aestetics and the Philosophy of Art, 200-222.

国立国際美術館 http://www.nmao.go.jp

高谷史郎《optical flat / fiber optic type》 https://www.youtube.com/watch?v=y_VfTgP6SXI

池上英洋(2007-03).「潜在的統一性の考察 ―ブランディの理論と芸術作品の定義―」恵泉女学園大学紀要19, pp109-128.

小川絢子(2016-06).「美術館における現代美術の保存修復―タイム・ベースド・メディア作品の修復報告―」『文化財保存修復学会第38回大会研究発表要旨集』pp268-269.

岡田温司(研究代表者).「デュシャンと現代美術の保存・修復」(2007)『イタリアにおける美術作品の保存・修復の思想と歴史-欧米各国との比較から-』シンポジウム記録, 科学研究費助成事業基盤研究(B), pp6-30.

河合大介. (2012). 「現実意図主義の暇疵」美學, 63(2), pp1–12. http://ci.nii.ac.jp/naid/110009578748

チェーザレ・ブランディ. (2015). 『修復の理論』小佐野重利監訳, 池上英洋・大竹秀実訳, 三元社.

ダンジェロパオロ. (2017). 現代美術の修復とチェーザレ・ブランディの修復理論. ディアファネース -- 芸術と思想 = Diaphanes: Art and Philosophy, 4,pp 21–34. Retrieved from

 http://hdl.handle.net/2433/226502

名古屋市美術館 http://www.art-museum.city.nagoya.jp/oshirase/393.html

パテッラジュゼッペ. (2017). アイデアを修復できるのか - 現代芸術の修復についての問い. ディアファネース -- 芸術と思想 = Diaphanes: Art and Philosophy, 4, pp5–20. Retrieved from

http://hdl.handle.net/2433/226503

 

 

 

[1]「一般的には,光波の干渉を利用して光学レンズなどの平坦さを計測するために,光の波長の数十分の一までの精度でその表面を磨き上げたガラス製の計測機器を意味する」(ICC)

[2] 高谷史郎《optical flat / fiber optic type》 https://www.youtube.com/watch?v=y_VfTgP6SXI. (2017年9月25日アクセス)

[3] 「上下のサイズが異なった形態をもつオブジェのようなもので,上下のピクセル数が同じであるため,オブジェの上下で映像サイズが拡張もしくは拡大されて伝達される特徴をもつ」(ICC)

[4] 小川(2016, 268)および見学時解説を参照した。

[5] Renee van de Vall. (2015-07). ‘The Devil and the Details: The Ontology of Contemporary Ary in Conservation Theory and Practice’. The British Journal of Aesthetics, Volume55, Issue 3, pp285–302, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayv036.