antropos’s blog

芸術作品の保存修復について考えていること・読んだもののメモなどを適当に放ってゆきます。

私が 吐いたものは 怒号を立てて 配管の奥へと吸い込まれていく 私は トイレの水が溢れてしまうような不安に駆られながら いつもそれを見て安心する でも本当は 不安になるようなことは初めからしたくない

昨日と今日は久々の休日だった いつも半分休日のようなものだ が 特別になんの煩いもない日だったということだ 昨日は恋人が来た 適当に話をしながら 駅前 へ 向かって 私の方は バイトへ行って 彼の方は 夕飯の買い出し行って 11時頃家で一緒 に夕飯を食ベタ 一緒に寝た あの人は 1度 目を覚ました時 とても怖い夢を見たと言っていた けれど 次に起きた時は忘れていて私はとても安心した 昼前に起きて 性行為をして 寝て 起きたら3時だった 私が身支度を済ませる間彼は キリンジを 弾き語っていて 私たちが求めるものは全て あの時間に詰まっていた。
 その後 あの人を バス停まで送って行って 飲み会に出た 手品を見た カラオケ行った みんなで歩いて帰った 私はあの人がいないのが寂しくて ということ が理由なのか どうか分からないけど 少し食べて吐いた 胃がひっくり返るような思いをしながら いつものように トイレを流れていく大量の食べ物 見つめていた 体中に蕁麻疹が出ている 私はあの人と一緒に生きていきたいのに なかなかそうはいかない 人間の孤独は簡単には 癒 えない

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回文な日付だということにタイトルを打っていて初めて気が付いて、日記を書くことの理由にでもしようと思ったけれど、やめた タイピングがものすごく早くなっている気がするけれど手がかじかんでいるので±ゼロであると思う 15000字書いてもまあいいんじゃないとしか言われなくて、私はもっとこうボロクソ言われたい でもやっぱりやさしくはしてほしい でもこのまま間違ってるんじゃないかと思いながらやっていくのはつらい 診断されたい 診断されるの好きだ 性格診断とか健康診断とか 診断されれば立ち位置がわかるようになるから 冬休み一日前だけど論文を見せてもいいのかな先生に? 凄く毎日死にたいけれど死なないだろうということがよくわかっている 最近はけーたいで漫画を読んでしまうからだめ。だめにならないために蔦屋で借りるようにしたりとかしたい。全部どうでもいいからたくさんたくさん映画が見たい。ほんとうにたくさん・・・たくさん映画が見たい。この前キングスマンの予告編でいい音楽流れて泣いちゃった 映画が恋しい 昨夜は夜じゅう81/2流して寝たりとかした E una festa la vita. Viviamo insieme.というのがちゃんと聞き取れてグイドを凄く近く感じた

現代美術の保存修復における批評について ―意図と素材の関係から―  

 

 

 

 

 

 0.概要

現代美術の修復には、素材の虚弱性と多様性からくる作品の急速な劣化や、複雑化したオリジナル概念への理解が喫緊の課題となっている。修復処置は、作品の本質を見極め、作品のうちのどの素材が代替可能でありうるのかといったことを批評的に判断しなければならない。現状では、存命の作者に作成意図や今後の処置判断を仰ぐことが適切かつ必要であるとされる。しかし、作家が既に逝去していたり、そもそも修復に関心を持たない作家がいたりすることも事実である。であるならば、作家にアクセスできようとそうでなかろうと、修復家が要請される批評とはどのようであるべきかを問わねばならないだろう。

ブランディは古典作品において、内的イメージと素材をともに保存する必要性を論じている。このことは現代美術にも当てはまるが、作者が内的イメージと捉えるものは従来よりも質的に変化しており、それに伴い素材とイメージのつながり方も変化している。作品の所持者は、これらの変化に対応した保存概念を再構築する必要がある。保存修復の実践においては、素材研究や作者へのインタビューに加え、映画や演劇のような芸術ジャンルのアーカイブの手法を参考にしていくことも一つの方法であると思われる。

 

 

1.はじめに

 2017年8月29日から9月1日にかけて、博物館見学を実施した。事前調査で、筆者は国立国際美術館を担当した。調査演習第3日目に当館を訪問し、レジストラーである小川絢子氏より説明を受けたのち、収蔵庫を見学させていただいた。そこで、現代美術における保存修復の問題は従来の芸術作品における問題から目まぐるしく変化し、広範かつ時間的に逼迫したものとなっていることが理解された。これを受けて、本レポートでは、実際の現場にて浮上している問題意識から、「作者の意図を探る」ということに焦点をあて、これがいかなる作業であるかを検討する。

 

国立国際美術館について

国立国際美術館は、独立行政法人国立美術館が擁する5つの国立博物館のうちのひとつで、特に現代美術を対象とした収集・保管および調査・研究を行っている。1997年に万博美術館を活用して開館し、2004年に現在の大阪・中之島西部地区へと新築・移転した。

 修復活動においては、今年度(2017年)は、修復研究所21にて所蔵作品である田中信太郎《マイナー・アートA.B.C.》(1968)3点が修復され、近日中に展示予定である。また、来年1月より開催される開館40周年記念展での展示に向けて、ロバート・ラウシェンバーグの《至点》(1968年)を3月に動作確認し、修復している。

 

 

2.現代美術における保存修復の課題と国立国際美術館の事例

現代美術は、素材の虚弱性と多様性が保存修復上の逼迫した問題を生み出している(ダンジェロ2017, 22)。それだけではなく、コンセプト重視の傾向が進んだ結果、素材という存在が作品にとって重要な意味を持たないケースもあることが原因であるとの指摘もある(パテッラ2017, 7)。これらの問題は国立国際美術館所蔵の《optical flat[1]/fiber optic type(以下optical flat)》(2000年)[Figure1]の保存修復においても顕在化している。

高谷史郎《optical flat》は氏の個展のために制作され、のちに国立国際美術館に収蔵された作品である。従来のメディア・アートの形式を確信する試みのもと実験的に制作された、「映像が入った彫刻作品[2]」と作者は語っている。また以下はICCの「ライト・[イン]サイト」展出展時に付された作品のステートメントである:

 

直線に並んだ金属のシャフトに突き刺さるかのように上を向けて設置された二台の液晶ディスプレイ上に,テーパーのついたグラスファイバー製の拡大鏡が置かれている.ディスプレイには映像が高速度で出力され,その上のテーパーグラスファイバー[3](視神経の束のような構造を持ち,形態も眼球を想起させる)を介し拡大または圧縮され,フラットかつシャープに表示される.記憶のメタファーとしての膨大な画像が,空間の直線性であらわされた時間軸における「現在」としてディスプレイ上で瞬間瞬間に高解像度で可視化され,観客は,あたかも記憶から機械の「眼」により出力される光学・視覚的な映像を受容する(映像を受容する「眼」の内側から見る,という逆転した図式)経験をする.このインスタレーションでは,映像を受容する「眼」を内側から見る.という逆転した図式が示唆されている.(ICC)

 

本作は2015年に小川氏担当のもとで修復された[4]。まず、本作は発表時と収蔵時とで形態が変化しており、いずれをオリジナルと捉えるかが焦点となった。作家との相談の末、発表当初に意図したコンセプトに忠実であることを修復のゴールに据えることとなった。その結果、旧機器(Mac G4)を覆う黒い箱が取り去られた。また、展示時には臨時に壁を設け、発表当初に作品が部屋を跨いで展示されていた状況と近似するよう、作品が壁を貫通しているように見せ、新機器(Mac mini)は壁内部に収納された。さらに、作者の手を離れてからもコンセプトが再現可能であるよう、処置や機器操作のフォーマットが作成された。

小川は、現代美術には機器の問題とオリジナル概念をどう位置づけるかという問題があるとし、処置の是非と程度を確定するためにはそれらについて作者に事前にインタビューしておく必要性があると強調する。機器は経年と共に作動しなくなる可能性があり、その前にエミュレーションあるいは生産終了前に同一のスペアを購入しておかねばならない。それでも実際に《optical flat》において白い箱を取り去り、新機器を導入するという一見過介入ともとれる処置をとれたのは、機器自体が作品の本質ではないことが作者によって示されたためである。

海外では、作家・キュレーター・コンサバターが協働し、作品のコンセプトと劣化想定時の処置介入の是非をインタビュー・アーカイブすることが一般的になっている。こうした言術も残すべき作品の一部なのである。

しかし、すぐに想像できるように、インタビュー記録ができたとしてもすべての事態を予期して調査しておくことは不可能である。さらに、同館蔵で修復中の《至点》のように作家が逝去している場合はインタビューが不可能であるし、小川もこのような作品に対する処置決定を迫られる場合は絶望的であると述べている。そのうえ、そもそも作家が修復に対して関心を払わないケースもある。名古屋市美術館蔵のアンゼルム・キーファーシベリアの少女》(1988)[Figure2]は、作家が存命であるにもかかわらず、作家の意向に拠らずに館の責任において2015年に修復が行われた事例である。公開修復時の解説者は冗談交じりにこのようなことを述べていた:「キーファーに修復処置について尋ねたところで取り合ってもらえず、むしろ新作を描くから買ってくれと言ってくるだろう」。

作者にアクセスできようとそうでなかろうと、上記でみたように、修復にはオリジナルを見極めるための情報収集及び批判的分析が欠かせない。古典作品においてブランディは、修復とはテクストとして作品を批判的に読み解くことであると述べたが、同様に現代美術修復においても、ハインツ・アルトヘーファーが「修復とは、芸術学と同じように、芸術作品の批判的解釈である(1992, 132. パテッラ2017, 11訳)」「的確な作品解釈があらゆる修復の前提(1991, 148. ibid.)」と述べている。それでは、批評的プロセスはどのようにあるべきなのだろうか。

 

 

3.イメージと意図、そして素材とのかかわり

 チェーザレ・ブランディによれば、修復の目的は、対象を芸術作品と見做すような美的経験を回復することである。そのために、素材とイメージが区別され、介入可能である部分が素材に限定される(修復の第1原則)。ここでブランディが念頭に置いているのは、素材は心的イメージの伝達道具でしかなく、芸術の本質はイメージの側にあるというクローチェ的概念である(ダンジェロ2017,30. また池上2007, 117)。つまり、作品の本質である心的イメージが経験されることで作品は芸術と見做されるのだ。しかし、心的イメージとはなんなのか。作家の意図した内容を指すのか、それとも、鑑賞者が作品を受けて個人の内に構築するものなのか。

 作品と作者の意図の関係は美学の分野で盛んに議論されてきた。ここでは作品は作者の意図をある程度反映する意図主義の立場から、上記の心的イメージを分析する。仮説的意図主義という立場をとるジェラルド・レヴィンソン(1996)は、意図を意味論的意図と範疇的意図のふたつに区分し、次のように説明している。

 

我々は芸術の制作と受容にとって重要なふたつの意図を区別する必要がある。一方は、範疇的意図であり、他方は意味論的意図である。あるテクストTによって、あるいは、それにおいて何かを意味しようとする著者の意図(意味論的意図)が一方のもので、テクストTがある特殊なあるいは一般的な仕方で分類され、あるいは理解されるようにする著者の意図(範疇的意図)はまったく別のものである。範疇的意図は、作者が、彼の作品を彼が想定する鑑賞者に対して枠付け、位置付けることを含んでいる。範疇的意図は、作者が何を作ったのか、それは何のためにあるのか、という作者の考えを、より基本的なレベルで含んでいる。それらが支配しているのは、作品が何を意味すべきか、ではなく、作品が根本的にどのように受け取られ、接近されるべきか、ということである。ここで考察されている範疇的意図にとって最も一般的なのは、明らかに他の何ものとも違う接近の仕方を要求するものである文学として(あるいは芸術として)みなされるべきだという意図である(Levinson 1996, 206. 河合(2012, 8)訳)。

 

 意味論的意図とは、作品が何かを意味しようとする作者の意図であり、作品を「芸術作品」として制作しようとする意図である。河合は、現代美術の解釈において作者の意図が重要である場合、「作品を通じて伝達されるような意味論的意図ではなく、作品がどのように経験されるべきかという範疇的意図」が重要であるという。

さらに河合は、作品には「①作者が(意味論的な)意図を慣習的なコードに従って表現することを(範疇的に)意図した作品と、②作者が(意味論的な)意図を表現しない、あるいは非慣習的な独自のコードによって表現することを(範疇的に)意図した作品」という区別を提示している。

①と②を、古典作品と現代美術から例を挙げて具体的に見てみよう。ミケランジェロの《ピエタ》は、当時の美の規範であるカノンに則り、キリスト教美術の図像学に基づいて、すなわち慣習的コードに基づいて聖母マリアとキリスト(意味論的内容)を彫刻した作品である。また、大理石から人物を掘り出すという手法は伝統的な芸術制作方法であり、芸術作品となることが範疇的に意図されていると言えよう。ゆえに《ピエタ》は①に属する。一方で、《optical flat》を例にとるならば、テーパーグラスファイバーが眼を暗示することは作品独自の意味付与であり、すなわち独自のコードに基づく。さらに、素材自体こそ芸術独自のものではないものの、「従来のメディア・アートを超えたものを作る」という制作意図が、作品をアート・シーンの俎上に載せようとする、範疇的意図として解される。

 ここで素材と意図の関係を考えると、現代美術は従来よりも複雑化・多様化していることがわかる。従来、作品が長持ちするように素材に配慮することは芸術を制作することの一部であった。芸術作品とは、長く保存されるものと同一視されたのである。特に、対象の永遠性が意味論的に意図された場合は、わけても素材の堅牢性が重視された。一方で現代美術においては、素材を芸術たらしめることと長持ちするものを選択するという発想とが必ずしも結びつくとは限らない。《optical flat》において、素材の堅牢性や虚弱性はそれが芸術であることを望む意図とは関係がないように思われる。実際、Mac G4が入った白い箱は意味論的意図を何ら持たないし、それがなくとも作品の芸術性は変化しないと作者自身によって見做されたのであった。他の例をもうひとつ挙げよう。ウィリアム・ケンブリッジ《勝利と哀悼》(2016)[Figure3]は、テヴェレ川沿いの堤防に、ローマの壮大なる歴史が、大気汚染(スモッグ)によって堆積した煤から浮かび上がるような手法で描かれた作品である。ここでは素材の脆さと、栄枯盛衰する歴史あるいは人間の儚さといった意味論的意図が直にリンクしている。加えて、鑑賞者が立ち止まって作品を眺めることで、個々人の自由な歴史解釈が喚起されることが緩やかに意図されている。

 ここまでみてきたように、範疇的意図は、我々が芸術として認める範疇を押し広げようとしてくる。はじめは伝統的な制作方法がその拠り所であったが、「素材にとらわれない」ことや、「鑑賞者に解釈が開かれている」ことなどが芸術概念に含まれてきたのだ。

 

 

4.修復儀礼説と意図の保存から考える所持者の意識の転換

範疇的意図が作品を芸術作品たらしめる意図であるならば、作品が芸術として外的に認められた時、すなわち作品が発表あるいは買い上げられた時にこそ、その意図は完遂されるといえるかもしれない。この考えは岡崎乾二郎の「作品の完成時は契約が発生した時である(岡田2007, 15)」という立場(修復儀礼説)に負っている。岡崎は、作家が第3者と作品についての規約を公私問わず交わす瞬間を、ひろく「契約」と見做す。ここにおいて作品は規定され、作者ですら作品の改変を許され難くなる。たとえ作品のコンセプトが観念化した瞬間こそが作家にとって重要であり、素材の劣化に関心がなかったり逆に再制作を望んだりしたとしても、契約後は所持者が作品の素材の唯一性に対して責任を負う。ここで所持者は2章でみたような喫緊の課題に直面するのである。従来の芸術概念である「長持ちさせる」という慣習的な芸術概念-コードが、もはやその発想のうちにない作品にもあてはめてしまっている点に所持者の困難が発生しているのだ。

《optical flat》の修復は、作家と所蔵館の2者間の合意のもとで公的に契約が更新されたゆえに正当化されたといえる。しかし上記のような2者間の合意が不可能な作品において、あるいはさらに、《勝利と哀悼》のように素材がなくなることが芸術性と不可分である作品においては、「唯一無二のものを長く保存しなれければならない」という作品概念から、所持者側もまた作家と同じように抜け出る必要がある。すなわち、作品がなくなることを許容しなければならないのだ。そうすることがむしろ、作品の範疇的意図をよりよく守る方法なのである。ただしこうした態度が広く鑑賞者や美術関係者に対しても正当性を謳えるためには、まだ多くの課題があるだろう。

 

 

5.おわりに

100年単位で物質的な保存が不可能であると思われる作品が後世においても芸術的価値を保証されうるためには、作品を芸術たらしめている意図、すなわち範疇的意図がよく保存されねばならない。意図の保存は、作品の本質を守る点においてのみならず、どう延命させてもいつかは朽ちてしまう作品が実際に亡くなってしまった際に、そこに芸術作品があったという事実を後世にも伝え続ける点においても必要である。なぜならそのような作品は得てして独自のコードに基づいて制作されており、コードが不明になれば芸術以外の対象との区別がなくなるからである。修復における批評とは、作品をよく理解するとともに、作品に応じた保存概念の在り方をつねに自らに問い直す作業なのである。

最後になるが、素材としては2次的なアーカイブにならざるを得ないとしても、作品の本質を保存する上では重要な方法として、映画や演劇の分野における保存の実践が参考になるのではないかと考えている。「もの」より「こと」を重視する現代美術作品の一部には、絵画や彫刻といった芸術よりもこれらの芸術の方がジャンルとして近いものがあるからである[5]

 

 

参考文献

International Communication Center(ICC) (2017年9月26日閲覧)

http://www.ntticc.or.jp/ja/feature/2008/Light_InSight/Works/opticalflat_j.html

Heinz Althofer, (1991). Il restauro delle opere d ’arte moderne e contemporanee, trad. it. Nardini, Firenze.

AAVV. (1992). Consercare l’arte contemporanea, a cura di Lidia Righi, Nardini, Firenze.

Levinson, Jerold. (1996). “Intention and Interpretation in Literature.” In his The Pleasures of Aesthetics: Philosophical Essays, Ithaca, NY: Cornell University Press, 175-213. Reprinted in Aestetics and the Philosophy of Art, 200-222.

国立国際美術館 http://www.nmao.go.jp

高谷史郎《optical flat / fiber optic type》 https://www.youtube.com/watch?v=y_VfTgP6SXI

池上英洋(2007-03).「潜在的統一性の考察 ―ブランディの理論と芸術作品の定義―」恵泉女学園大学紀要19, pp109-128.

小川絢子(2016-06).「美術館における現代美術の保存修復―タイム・ベースド・メディア作品の修復報告―」『文化財保存修復学会第38回大会研究発表要旨集』pp268-269.

岡田温司(研究代表者).「デュシャンと現代美術の保存・修復」(2007)『イタリアにおける美術作品の保存・修復の思想と歴史-欧米各国との比較から-』シンポジウム記録, 科学研究費助成事業基盤研究(B), pp6-30.

河合大介. (2012). 「現実意図主義の暇疵」美學, 63(2), pp1–12. http://ci.nii.ac.jp/naid/110009578748

チェーザレ・ブランディ. (2015). 『修復の理論』小佐野重利監訳, 池上英洋・大竹秀実訳, 三元社.

ダンジェロパオロ. (2017). 現代美術の修復とチェーザレ・ブランディの修復理論. ディアファネース -- 芸術と思想 = Diaphanes: Art and Philosophy, 4,pp 21–34. Retrieved from

 http://hdl.handle.net/2433/226502

名古屋市美術館 http://www.art-museum.city.nagoya.jp/oshirase/393.html

パテッラジュゼッペ. (2017). アイデアを修復できるのか - 現代芸術の修復についての問い. ディアファネース -- 芸術と思想 = Diaphanes: Art and Philosophy, 4, pp5–20. Retrieved from

http://hdl.handle.net/2433/226503

 

 

 

[1]「一般的には,光波の干渉を利用して光学レンズなどの平坦さを計測するために,光の波長の数十分の一までの精度でその表面を磨き上げたガラス製の計測機器を意味する」(ICC)

[2] 高谷史郎《optical flat / fiber optic type》 https://www.youtube.com/watch?v=y_VfTgP6SXI. (2017年9月25日アクセス)

[3] 「上下のサイズが異なった形態をもつオブジェのようなもので,上下のピクセル数が同じであるため,オブジェの上下で映像サイズが拡張もしくは拡大されて伝達される特徴をもつ」(ICC)

[4] 小川(2016, 268)および見学時解説を参照した。

[5] Renee van de Vall. (2015-07). ‘The Devil and the Details: The Ontology of Contemporary Ary in Conservation Theory and Practice’. The British Journal of Aesthetics, Volume55, Issue 3, pp285–302, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayv036.

レポート草案の墓場

作品における内的イメージと素材について考えていて、レポートからは削ったけど棄てるには忍びないフックになりそうな言葉たちを羅列して置いておこうと思います。 

 

 

 

・作品のコンセプトとは、芸術作品としての本質である。

・ただし、コンセプト抜きに作品が作られることもあり、それを第3者が認めるならば芸術となりうる。契約である

・発表時のオリジナルの状態が最適でないと考える作家がいることも事実なのだ。それが古色によってより良くなることが見越されている場合は。

・取り替え可能であるような2次的な素材と、作品の本質に関与する取り替え不可能な素材が混在している。2次的な素材は取り替え可能であるという考え方はブランディのいう構造と概観の区別に近似する。

・インタビューは作家に作品の意義を素材の部分ひとつひとつにおいて問い直すことになる。

「現代美術の修復とチェーザレ・ブランディの修復理論」

「現代美術の修復とチェーザレ・ブランディの修復理論」

Paolo Dangelo 京大講演2017-03-30 ディアファーネス収録

http://hdl.handle.net/2433/226502

 

 

第1部

挙げられている例

ケントリッジ勝利と哀悼》2016 …意図的に長く遺らない作品

スミッソン《スパイラル・ジェッティ》1970 …外的な災難にあえて晒されている作品

ハースト《生者の心における死の物理的不可能性》1992 …虚弱な素材が使われている作品

 

過去の美術作品への修復と現代美術作品へのそれとの根本的差異

①素材の多様性。ただし、過去の作品もまた多様な素材が使用されているので大きな差異とは言えない

②素材の虚弱性。現代美術作品は圧倒的に脆い

従来の視覚芸術の存在論の根本原則は素材と同一視できた。しかし作品はいま「出来事」へと移り、イベントの記録や記録媒体の保存へと課題がシフトしている。例えば、ランド・アートはサイト・スペシフィックであるという特徴がある点で、周囲の景観とあわせて保護される建築物と近接する。また、ボイスのインスタレーションのように、作品の虚弱性は自然な素材を使う以上避けられないし、脆くなることが作品の在り方を補完する性質である場合もある。さらにヴィデオ・アートにおいては、ハードウェアの盛衰に伴って、エミュレーション(オリジナルとは別のメディアを用いて同様の効果を再現すること)が必須である。

 

現代の修復家は素材を自らコントロールすることが少ないし、知識や関心も薄い。この傾向は、19世紀にチューブ絵具が開発された時から続いている。素材と作家の関係は大きく変化したのだ。それを端的に表すのが、コンセプチュアル・アートである。作品の本質は素材ではなく、メッセージにある。そうでなくとも、現代美術のアーティストのうち、着想の瞬間のみを本質として打ち出す作家は後を絶たない。

 

第2部

現代美術における多様な現象と芸術様式の変化に対して、ブランディの理論はどこまで応用可能なのか?あるいは、どれに応用可能なのか?

ブランディは当時の現代美術に関心を寄せていたものの、修復の対象は近代以前の作品であった。その理由は、①戦争により損傷した作品を救出する必要があったこと、②現代美術に特化した美術館の数が当時は限られていたこと、③イタリア文化財のなりたちそのものが歴史的であること、が挙げられる。

ただし、1972年の修復憲章で対象となる芸術作品には現代美術をも含まれている。この規定の着想源である、復元的な修復を禁止する「修復の唯一性」の原則は、建築や考古学の分野で多分に批判されてきた。現代美術の分野でも同様である。

以下では、「修復の唯一性」がいかに機能し、とくに現代美術の個々の介入へ適用されるかを、『修復の理論』を吟味しながら検討する。ブランディ自身、各事例の特殊性に応じて、根本原則に沿った修復方法を実践することに対する注意を促している。

「どの芸術作品も唯一のものであり、そのようなものとされなくてはならない」『修復の理論』p130

「一般的な原則は存在しませんし、私たちの使命のために、あらゆる方法を用いて検討を実践し、慎重であるほかありません」『Il restauro』1994, p99

 

まず、修復の定義。

「修復とは、芸術作品を未来へと伝達することを目的に、作品を物理的実体及び美的歴史的な二面性の対極において認識するための方法論的な契機を作り上げる」『修復の理論』p32

作品を芸術作品と認識するような美的経験を享受できるようにするというこの目標は、現代美術にも当てはまる。なぜなら、過去の芸術は美術的価値を様式や主題において表現していた一方で、現代美術は、何がそれを芸術作品たらしめているかを理論的な視点から理解するひつようがあるからである。そうしてはじめて、何を修復するかを決めるのである。芸術作品を理解し後世の人に伝える使命があるという意味で、修復家は批評家でなくてはいけないのだ。現代美術にしばしば行われる作家本人による修復は再制作となり真の修復ではない。

 

 次に、素材について。「修復は、芸術作品の物理的側面に対してのみ行われる」p33.クローチェは、マチエールは内的イメージの伝達道具に過ぎないと考えた。また、サルトルは、イメージは作品の物質性によって意識の中に生じる対応物であり、物質と同一のものではないとする現象学的考察を行った。芸術作品はマチエールを超えるものである。ブランディはこれらの思想を受け継いでいる。上記の原則も、現代美術に当てはまるものである。

 筆者は、現代美術の修復分野で特に重要視されるのは、ブランディが理論化した物体の外観と構造の区別であると考える。だから構造を変える修復は容認される。現代美術にとって、構造を変更することで概観を保存することは、そうせざるをえない要請でもある。しかしこれは歴史的要件からうまれる経年劣化の痕跡を保護するという原則と緊張関係にある。判別可能性、可逆性これらの原則は現代美術には適用困難である。しかし、物質的・概念的・美学的に、作品が今後どう変化するかわからない。判別可能性や可逆性は、残存部をも保存する行為によってなされる。歴史的要件と美的要件が衝突しかねない場では、つねに美的要件が優先されるべきなのである。古来行われてきた部分的な取り替えなどの批判が大きい修復は、ある種の現代美術にとっては妥当且つ不可欠な処置といえる。

「予防的修復」の概念は現代美術にとても重要である。環境を整えることはもちろん、素材について正確な知識を有すること。科学分析、アーティストや素材を制作した工場などからの情報収集、および事前実験などが今日の修復の実践になってくるのである。

すぐに愛と言う人の話・4月

 人と少しだけ親密になった時こそ、最大限に相手を愛してしまう。

 たとえば。

 彼女がその目と最小限の仕草で私の吸っている煙草の灰が落ちそうになっているのを示したときの、優しいとすら言えないけれど確かにあたたかみを含んだ無表情のことを、なんどもなんどもなんども思い出したくなる。彼女の一連の身体の動きから、わずかな仕草のくせをそっと掬い出すように思い浮かべる。それはお菓子を作るときの、小麦粉をふるいにかける作業に似ている。丁寧にふるって、きめのこまかな粉になったそれと、残って丸くなったすこしおおきな粒たち。触るとほろほろと崩れて、こまかな粉に混ざってゆく。

 でも、そうして高度に鮮明になったものは私の中で色を付けられて、当の相手から離れていってしまう。そうすると悲しくて、思考それ自体の不毛さがめだってきて、焦る。焦って、思考の対象のなかにどんどん自分が立ちあがってきてかなしい。それでも、捕まえかけた彼女の仕草のことはたまらなく愛おしいから、幸せなのだ。冷たくて寒々しい色の幸福。

論文整理にMendeleyを導入してみた。うまく管理できるだろうか。

 

以下読んだからまとめる。

 

「アイデアを修復できるのか 現代芸術の修復についての問い」

Giuseppe Patella 京大講演、2017-03-30、ディアファーネス収録

http://hdl.handle.net/2433/226503

 

現代美術には、ロス《セルフ・タワー》やカルツォラーリ、ライプ《ミルクストーン》といった、エフェメラルで一時的な素材を用いた作品のほか、アルマンの《怒り》のように対象を破壊することが作品の一部であるような作品がある。これらは我々に、修復することの意味を哲学的あるいは実践的な面で問うて来る。作品はものなのか、アイデアなのか。そして、コンセプチュアルな作品に対して、アイデアを修復することは可能であるのか。

 

 現代美術の修復に関する問題は今日初めて起ったわけでも、その素材の多様性と虚弱性に由来するのみでもない。物質の形態や技術よりも理念的行為を優位におく精神主義的芸術観(垢にまみれたイデオロギーとまで言ってる!) は、古代プラトン主義哲学に根差し、新プラトン主義からマニエリスムが生まれ、近代においては「天才概念」にみられるようなロマン主義へと発展し現在へ至るパノフスキーも、『イデア』において、精神主義的な芸術観の源流が新プラトン主義哲学にあると述べている。デュシャンにまで時代が下ると、概念の優位を推し進めた結果として、形態の重要性は限りなく後退した。ここでは「名指すこと」それだけで芸術が作られたのである。

 1950年代以降に興ったハプニング、パフォーマンス、インスタレーションに至ると、支持体は捨て去られるまでになった。重要なのは常にアイデアであり、作品は物質的支持体には還元されないのだ。この傾向は物質的作品を作る現代美術家・ハーストやクーンズにとっても当てはまる。それゆえに、作品が殆ど回復不能なほどに傷んだ時、交換という再制作が可能となったのだ。

 一方でコレクターや美術館、一般人は、ものの存在に私的・公的いずれの場合にも最大の関心を払う。今日芸術を取り巻く経済市場システムにとって、作品は投機や蓄財の対象である。つまり、再制作という修復方法は、物質が二次的価値しか持たないという作家側の芸術観と、ものの所有を重視する現代の市場システムの両面から正当化されているのだ。

 とはいえ、現代美術家のなかには、自己破壊的傾向を示す作品もあれば、形態の不変性や素材感を探求する作品もある。これらの相反する傾向はいずれも作品の本質を補完するものである(「補完的二元論」)。したがって修復は(ブランディが言うのとまったく同じように、)、批判的分析が要請される。アルトヘーファーは「的確な作品解釈があらゆる修復の前提」であると述べている。

 さらに素材の虚弱性と一口に言っても、物質が二次的価値しか持たないという場合と、脆さ自体が作品の本質である場合とがある。前者では再制作は可能かもしれないが、後者のケースでは介入は殆ど許されざる行為である。よってみちびかれるのは、「あたう限り少なく、けれど必要な場合には介入すること」である。

 たとえ精神主義的芸術観が過度な介入を容認する「垢にまみれたイデオロギー」であったとしても、ロマン主義が培った廃墟趣味やその価値の自律性の尊重は、現在の我々の過去を見るしかたにも影響を与えている。廃墟趣味はひとつの文化的トポスである。

 

◎ウィリアム・ケンブリッジ勝利と哀悼》についての考察。

 本作は、2016年春にテヴェレ川の堤防をつなぐ巨大な城壁に描かれたフリーズである。壁上に堆積していたスモッグの古色を洗い流す手法を用いて、ステンシルのように歴史的事物の影が浮かび上がるように描かれている。時間と共にスモッグが堆積すれば、作品は消滅する運命にある。本作は、その壮大さにもかかわらず自己破壊的性格を持つゆえに我々を圧倒するのである。

 本作はパブリックアートの新たな意義を提示している。本作の前で、鑑賞者たちは過去に盛衰したローマの歴史について考え、話し合い、解釈を構築する。本作の自己破壊的性格は、それ自体で歴史の本質を浮き彫りにするゆえに作品の本質を補完している。

 さらに、彼が用いたドローイングという手法も、従来の対象を写し取る手法としてではなく、この本質と深くかかわる仕方へと刷新される。映画が歴史を語るときのように、運動・時間的イメージを生成し、「時間の痕跡を記憶する」。ドローイングによってケントリッジは時間や歴史をほりおこし、再構成し作品にし、それを受けて鑑賞者は歴史を再創造する。こうして作者と観者はあらたな共同関係を得るのだ。本作は破壊へと向かうことを運命づけられながらも、創造性を喚起するものなのである。

 

 

ロマン主義からの移行というけれど、形態とイメージの対立は、近代以前では描く対象と描写内容の関係性だったのが、デュシャン以降では支持体とイメージの問題に置き換わってないか?

・《勝利と哀悼》は結局、その作品を記録することでしか修復介入できないんだろう。物理的介入それ自体が作品の本質を損なうものになるから。でも、後世の人々が現在と同様に本作から美的経験を得ることは映像や写真記録のみで可能なんだろうか。とはいえ「なくなりそう」という状態が永遠に続くというパラドキシカルな状況は作品にとってあるまじき、という感じがするからやっぱり、本作の消滅は受け入れないといけない。50年後100年後には、新しい作品ほどマスターピースが実在しない状況が起こるんだろうか。