antropos’s blog

日記? それと芸術作品の保存修復に関して

本を読んでいる時に

きたない話です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『分析美学入門』第3章美的経験を読んでいる時に便意を催したのでお手洗いに行くため席を立った。

私は胃腸が弱いうえに食生活と睡眠時間が不規則でかつ煙草を吸う。だからなのか知らないが、5日間出ない時もあれば3日連続で手洗いに行くたびに若干お尻も拭く羽目になることもある。要するに快便体質ではないのだ。

ここでもうお分かりかと思うが先程してきたうんこがあり得ないくらい健康的で非常に感動してしまった。

ほどよく直腸の形を保ちながら柔軟性を持ち、最初に出た部分が便器の奥に入って見えないほど長く、終わりの部分はゆるやかに弧を描いている。もちろん潔く、途切れのない1本として。まさしくバナナうんこである。

(良いうんこの指標にバナナうんこという表現があると思うのだがこれはパナマ運河とかけているんだろうか)

一見して(美しい)と思い、(これこそが美的経験だ)と思ってしまった。

 

『分析美学入門』著者であるステッカーが採用する美的経験の最小説は以下のように定義される:

「対象の形式、質、意味ある特徴などに、それらを識別するような態度で、そしてそれら自体のために、もしくはまさにその経験に内在的なペイオフのために、注意を向けることによって、もたらされる経験」

 

私はうんこの形(1本である、ほどよく太い)や質(柔軟である、明るい茶色である)、意味ある特徴(上述の性質は健康的という意味をもつ特徴ともいえる)を、それらを識別するような態度で、見た。

そして、それら自体のために(この弧の描き方は美しい)、もしくはまさにその経験に内在的なペイオフのために(出すのが気持ちよかった、形が美しいことは見ていて快であった)注意を向けた。

 

まさしく美的経験じゃないか!

 

咄嗟に、「美しいうんこ展」なんてあったらうんこ芸術というジャンルが確立してしまうかもしれないと思った。しかし当然、拒絶反応もあるだろう。この反応はさっきの私には全くなかったものである。なぜか?

それは、私の経験が「出した」と「見る」の複合的な経験であったからである。私はうんこをひねっている時に(あ、これいい感じのやつだ)と予感したし、そもそもうんこのキレがよいとお腹が凹む上に体も軽くなり、さらに下痢の時のようにお尻も汚れないのでとても快なのだ。

さらに私はきれいなかたちのうんこを見て自身の健康を確認した。今までにない程、現在の自身が健康であることがあれによって視覚的に証明されたのである。一般に、うんこが健康の基準となるということは受け入れられて良いと思う。そして、自身の健康を知ることは快である。

 

そんなわけで、単に形が美しいことと、その形の美しさが私にとって便後感と健康確認にとって有益であったことがあいまって、先程の「うんこ出す‐見る」経験が美的経験になったのであろう。

付言するならば、今が晴れた春の昼時で、自然光が美しく差し込んでしたという照明効果もあったかもしれない。

 

うんこ展はまじでどうでもいいが、そのあと一瞬だけ太もも展へと思考がスライドした。

通常美的なものとは考えられていないものに対して美的経験を得ると人はそれを共有したくなり、ともすると展覧会を開く。

女性の太ももを美的に経験することは可能であろう。しかし、美的に経験するためにはある程度(さまざまな質を識別しようとする態度で対象に注意を向ける程度には)積極的な姿勢が必要である。そうした姿勢は、べつに特別身構えるようなものではないが、対象を美的に経験できるポテンシャルを備えているべきだ、ということを示している。

 

まったくそこには美的経験はないのだ、と思いながら、従来美的とは思われなかったものを美的に経験することは難しい。

しかし上記のような姿勢を鑑賞者に求めるには、太ももは(うんこと同様に)あまりにも別の意味をすでに与えられすぎている。すなわち、性的であるという意味である。この意味は、近年盛り上がりを見せる倫理問題と関連し、太ももを鑑賞する行為に対してセンシティブに介入してくる。

 

ゆえに、ここにも美的経験がありますよ、ということをうまいこと提示しないことには、美的でないとみなされてきたものを美的経験の対象に含めることは困難なのだ。それはキュレーションのなせるわざである。

 

だらだらと思いついたので書きましたが、まさか太ももをうんこと同様にして語る日が来るとはゆめゆめ思いもしませんでした。まあこのあたりでおわり。